「見ないふり」に気づいたきっかけ

手帳やノートが好きで、

自分が感じたことにも人より向き合ってきた、

と思ってきたけど、

実は全然向き合ってきてなかった、

と最近強く感じています。

 

私が手帳・ノートに書いてきたのは、

自分が「ありたい自分」のみ。

嬉しさ、怒り、楽しさ、悲しみも

自分で書き残してOKとジャッジをしたもののみ。

自分の一部として見たくないものは

時には自覚しつつ、時には無自覚に

決して手帳やノートには書いてこなかった。

 

その葬ってきたものが、

そもそも手帳・ノートを使ってしたいことや、

その他人生のありとあらゆるいろんなものに

影響を及ぼしている、

と気づいたことがありました。

 

きっかけは、

「恐れているのは何?」

というシンプルな質問。

 

最初にこの質問と対峙したときは、

「いや、恐れているんじゃなくて、

嫌なことがあって怒っているのだけど」

ととっさに反発したけど、

このとっさの反発こそが、

反射的に「見ないようにしている」

何よりもの証拠でした。

 

「恐れているものと向き合う」

って言葉にすると、

なんだか深刻で楽しくなくて

しんどそうで、

何でわざわざ楽しくて幸せな

手帳・ノートタイムにしなくちゃいけないの、

という感じですが、

(そう感じていたのは私です)

「恐れているのは何?」の答えを

アウトプットすればするほど、

思わず笑ってしまいそうになるのです。

 

あまりにも思い込みや事実の曲解が詰め込まれているから。

自分で勝手にどれだけややこしくしているんだよ~

とつっこみたくなること必至です。

 

その思わず笑ってしまう感じが増えれば増えるほど、

自分に対する力み、のようなものが

少しずつほぐれていくように感じています。

 



 

0コメント

  • 1000 / 1000